有閑堂

オカルト好きのブログ

粒よりな話 その3

続きです 
386 名前:アラサー女 EgHTFQZo3s 投稿日:2011/12/17() 15:16:06.49 ID:bGzC+LMLP
さて二度目に出会ったとき挨拶すると、お坊さんは、「ああ、兄ちゃん…」とちょっと
うれしそうだったそうです。
「儂(わし)な、夢にお不動さんが出てきてな…」
坊さんのお話では夢に出てきた不動明王はじっと坊さんを見つめながら、「お前の
旅はもうしばらくで終わる。」と言ったのだそうです。いつまでこんな旅を続けない
といけないのか、ご自分の過去を悔いていたお坊さんにとって、一筋の光明となる夢
でした。
「そうな。よかったなぁ」と答えたそうですが、弟は私にこの話をした後、「もうすぐ
死ぬと言う意味やろな」と言いました。
私も同じ意見です。 
387 名前:アラサー女 EgHTFQZo3s 投稿日:2011/12/17() 15:33:24.75 ID:bGzC+LMLP
私が数年前に弟から聞かされた話はこれでお終いです。

まぁ、お坊さんが過去を悔いたというのは話としては納まりがよいのですがね、
実は私はこう思うんですね。
お坊さんの視界が突然広がったわけじゃないんだから、本当のところお坊さんは
何を悔やんでいたんだろう?ってね。我々が考える悔やみ方とは違うかも知れな
いよってね。

お前さんは何を酷(ひど)いことを考えているんだよ。お坊さんは十分報いを受け
てるじゃないか。そのうえ追い打ちを掛けるようなこと何を考えてるんだよ。誰か
も書いてたけど、やっぱりお前さん調子に乗って気づかないうちに魔境に入ってい
るんじゃないのか?

私の観方(みかた)に対してはこう憤慨(ふんがい)される方もいらっしゃるかも
しれません。確かに思いやりが欠けた観方のように見えるかも知れないですね。
でもね、私は思うんですね。そうして辛い目に遭った人々、苦しい目にあった人々、
彼らに同情の気持ちを持つことは大切だ。しかしそれとこれとは話が別だ、と。  
388 名前:アラサー女 EgHTFQZo3s 投稿日:2011/12/17() 15:49:51.26 ID:bGzC+LMLP
人に対して思いやり、同情の念を持つことは人として大切なことです。だからといって
その人達の行為と結果とその原因の意味を考えることを放棄するのはいかがなものでしょう?

「そこまですることはない」とか「追い打ちをかけるな」とか「死者を鞭打つのか」とか
いろいろな言い方をされることがありますが、それで良いのでしょうか?
私は実はそのよな態度は彼らの貴重な体験を無にする行為であるし、彼らの行為の意味を
追究することは決して彼らに追い打ちをかけることでも気の毒な人たちを責めることにも
ならない、と思います。
人間のする様々な失敗や苦しみ悩みの体験、それは実は貴重な人類の共有財産であり、誰でもがそこから教訓や智慧を汲(く)み出すことのできる宝の山だと思うのです。

ですから言葉は「追い打ちを掛けるな」とか「死者に敬意を払え」とか言いますと言葉は
キレイなのですが、実は人々の意識にヴェールをかぶせ、鈍らせ、一種の結界を作ってし
まう言葉なのではないか、そう思うのです。真実の追究、真への欲求、これは決して否定
すべきものではありません。責めるというのであればそれは私も同意見なんですが、真の
追究と人を責めるのとはまったく意味が違うのです。 
389 名前:アラサー女 EgHTFQZo3s 投稿日:2011/12/17() 15:59:40.80 ID:bGzC+LMLP
そしてね、過去を悔いたお坊さんの視界を考えてみましょう。
そうすると彼の行動を観察してみると、彼がどのような視界の中で主として生きてきたのか、それが推察できます。

彼は依頼者の求めに応じて諾々(だくだく)と、そうですねやはりしばしば呪(じゅ)
を実行してきた、と言わねばなりません。
もちろん病気直しや家内平安、経済的成功などの現世利益をも多く願ってきたことでし ょう。

ここにある正しさの基準、つまり判断基準・行動基準はいかなるものでしょう。
それは信用して頼まれたからただ受けたんですね。お願いしますよ、はいわかりました、
この関係ですね。

これが二人称の関係性であります。彼の正しさの基準は二人称にあった、と言いうるで
しょう。それが愚かな結末をもたらしているのです。何故でしょう?
それは彼が力を持っていたからです。もし彼に修験の力がなかったら、果たしてこんな
結末が待っていたでしょうか?
579 名前:アラサー女 EgHTFQZo3s 投稿日:2011/12/26() 05:44:57.37 ID:1XsrxhWIP
いろいろお話をさせていただきましたが、途中でほっぽり出しの話が多くて恐縮です。

今思い出すのですと、百匹目の猿のお話、あれも実は幸島で猿たちが芋洗いを始めた頃、
高崎山でも芋洗いを始めた猿たちが出たのは事実なのです。ただ高崎山では余りその事の
意味を重視せずにそのまま見ていたのです。
臨界という概念で猿の芋洗いがほぼ同じくして二箇所で観察されたという事実を説明する
のはちょっとどうかと思うところもあるのですが、意識が互いに繋がり物事が関連する
かのように生起してゆく、というのはその通りなんです。

トムとジェリーのお話もありましたね。どちらがトムでどちらがジュリーか存じませんが、
仲良く喧嘩する縁は意識の中に確固として相手の存在を刻み込み、切れることなく未来に
またつながってゆくのです。
その未来においても喧嘩するもよし、喧嘩に飽きて仲良くするもよし。それも楽しい選択のうちでしょう。

密教僧のお話はもう種明かしができたつもりなのですが、それも不動明王のお力ではなくて
想念の創造力を駆使した結果であろうと思うのですね。想いの力は実現するのです。しかし
実現したとしてもその反作用もまた蓄積されていつか力の解放される時を静かに待っていた
のです。そして結果実現した事件・環境は結局その修行僧の心の中そのものだったんですね。